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こころの掲示板
本校では、生徒玄関横に「こころの掲示板」を設置しています。書道クラブの協力のもと、月に一度生徒に問いかける法語を掲示しています。法語を掲示し、ホームルームやクラブ活動、学校生活のあらゆる場面でとりあげ、自分の生き方や心を見つめる機会としています。
また、毎週金曜日の瞑想の時間には、三分間の「朝の法話」を放送しています。いつも外へ向いている自分の目を、自分自身の方へ向けてみる貴重な時間になります。
今月の法語
7・8月
書:スタシアチェッリ ゾフィア(留学生)
先日テスト返却があった際、「ちゃんと見直しをしておけば。もったいないことをした」と嘆いている生徒がいました。
「勿体(もったい)ない」という言葉を辞書で引くと「そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい」と、書かれてあります。私たちの普段の生活でも、できるのに、できなかった時や、期待値に届かなった時に、「勿体ない」という言葉を使うことがあります。
ところが「勿体」という言葉の本当の意味は、「本来あるべき姿」ということで、その姿から消失した形が「勿体ない」ということになります。
写真家の本橋誠一さんは、大阪は松原の屠場(牛や豚などの家畜を殺して解体し、食肉に加工する施設)で働く人々を約三十年に渡って記録されました。その中で、牛と向かい合う作業員の姿から、生きるためには殺さないといけないという人間の矛盾に苦悩する姿と、「いのち」を奪う者に向けられた差別の中にあっても、誇りをもって仕事に取り組む姿が垣間見えたそうです。そして、「いつから私たちはいのちが見えなくなったのだろうか。」という問いかけもされています。
かつて私たち人間は自らの手によって「いのち」を奪い、自らを生かしてきました。そして、目の前の「いのち」が息絶える度に、「いのち」のはかなさ、生死の理が、ありありと見えたのだと思います。
しかし、時代が進むにつれ貪欲さを増した人間は、大量生産、大量消費を好むようになりました。そして、便利で快適な暮らしを享受できるようになった一方、「いのち」を個人の所有物にしたり、「いのち」が互いに支え合っていることを忘れたりと、「いのち」が見えなくなっているのが今の私たちです。
「私は、どのようにして生きている」のか。
「勿体ない」ことをしている私たち人間は、改めて考えなければならないように思います。
6月
書:宮下 結菜
この文章を書いている私(宗教科教員)は、平均的な成人男性に比べ身長が低いほうです。これは幼いころからそうで、小学校入学以来、クラスで「背の順」で並ぶときには必ず列の先頭に私がいました(反対に、名前の順番では必ず最後尾でしたが)。
これは、長らく私にとって大きな問題でした。背の高い人への羨望の気持ちは、小学生頃から芽生え始めました。なんとか背を伸ばそうと、苦手だった牛乳を毎日飲んだり、当時使っていた二段ベッドの上段のフレームに足を挟み逆さまにぶら下がってみたりしました。しかし、なかなか自分の望むような結果は得られませんでした。「身長さえ手に入るのなら、私は他には何も望みません。」と、お祈りするような気持ちで思春期の日々を過ごしていました。
小学生・中学生と続き、高校生になっても、同じ悩みに心が支配されていました。そのような高校時代でしたが、ある二人の人物から言われた一言が、私の心を軽くしてくれました。
一人はクラスの友人でした。その友人は大の競馬好きで、私に頭を下げて「お前のその低い身長は競馬のジョッキー(騎手)に向いている。頼むからジョッキーを目指してくれ。」と言いました。身長の低いことが有利になる職業があることを初めて知り、自分の身長の見方が変わったのを覚えています。
もう一人は私の母親でした。母親は私に「あんた、背の低いのは“省エネ”なんやで。食べ物も水も少なくて済むから環境にええことなんやで。」と言いました。母親は冗談のつもりで言ったのかもしれませんが、「背が低い」ことと「省エネ」がつながるなんて発想は自分の中には無かったので、世紀の大発見をしたみたいでうれしい気持ちになり、心がほどけました。
今回の法語「評価は創造である」という言葉を、私はこのような自分の経験に当てはめて受け取っています。自分の身長に対する「評価」が、目の前で「創造」されたのです。既存の評価軸を超え、新しい「評価」を「創造」する力を持っている、ここに人間の豊かさを感じます。
5月
書:中条 琴乃
昔から「笑う門には福来る」といいますように、笑いは心身の健康によいことが経験的に知られてきました。
一方、近年は笑いと健康との関連が学術的に報告されるようになり、笑いが痛みを減らし、ストレスを解消し、免疫力を上げることなど数多くの健康効果が報告されてきました。しかし、いくら笑いが大切といっても、笑いたくても笑えないことだってあります。
身近な生活でおこった悲しいことにはじまり、戦争や未曽有の自然災害など、自分の責任ではないところから襲ってきた出来事を経験したときに、はたして笑うことはできるのでしょうか。
作家の五木寛之さんは、自身が更年期という、心も体も疲れやすい時期に一日一回よろこぼうと、大きなことから些細なことまで手帳に記していたそうです。すると不思議なことに、よろこぼうと身構えると、よろこびのほうから近寄ってきて心も体も回復したようです。
ところが数年経つと、よろこぼうと意識するあまり、心からよろこべなくなり、「よろこびノート」の効果が薄れたそうです。そこで今度は、「悲しみノート」と題して、今日あった悲しいことを一つひとつ書いていきました。すると、再び心と体が回復し、立ち直ったといいます。
悲しいことがおこったとき、私たちは何とか前を向こうと、あるいは逃避したいという思いから、無理やり笑おうとすることがあります。しかし、表面上の笑いで悲しみから目をそらしても、根本的な解決にはならず、かえって悲しみ続けることにもなりかねません。
むしろ、悲しいときこそ、しっかり悲しんで泣くこと。そうすることで、気持ちの整理がつき、生きる力が湧いてくることもあります。そしてその先に、ほんとうのよろこびを味わえるのではないでしょうか。
4月
書:スタシアチェック ゾフィア(留学生)
この「伝導掲示板」では、宗教科の教員が言葉を選び、月替わりで紹介しています。
伊那西高校は「仏教」とりわけ親鸞聖人がお伝えくださった「浄土真宗」の教えを建学の精神とし、その上にすべての教育活動が成り立つ学校です。
仏教というと、難しいお経を勉強したり厳しい修行をしたりするもの、また思想や考えを押しつけられたりするもの、というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、大谷大学名誉教授である延塚知道先生は、今回の言葉のように、仏教は「私が私自身になる教え」だと示してくださっています。
しかし「私が私自身になると言われなくても、もともと私は私だし・・・」と、素朴に疑問に思うかもしれません。ですから、世間の人は「私が私自身になる」ことよりも、「なりたい私になる」ことの方に一生懸命です。
「なりたい私になる」ために頑張ることは大事ですが、ここで大事になるのは、その思いの土台にあるのが「願い」なのか「欲望」なのか、という問題です。
人間は自分にないものを欲しがります。すでに持っているものを欲しいとは思いません。ですから「なりたい私になる」という思いの土台には、自分が持っていないもの、自分に足りないものを求めるという「欲望」が隠れているかもしれません。その出発点には、自分と周りを比べる心があります。しかし、比べる心は優越感や劣等感を生み出します。また、欲望は次から次へと沸き起こってきますから、ひとつ得られてもまた別のものが欲しくなって際限がありません。そして、人を蹴落としたり傷つけたりしてでも自分の欲しいものを手に入れようとします。ですから、欲望を原動力として生きている限り、争いは絶えません。最後には、むなしさだけが残ります。
欲望よりもさらに深いところにある「願い」が満たされなければ、他の何を得られたとしても、人間は本当の意味では満たされません。人間の願いとは何なのか、欲望の荒波のただ中で足を止め、むなしく生きることのない人生を問うていくのが、伊那西高校の願いとするところです。
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