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9月

書:丸山 舞依

書:丸山 舞依

 飛鳥時代に推古天皇の摂政(せっしょう)として活躍した聖徳太子(厩戸王)は、朝鮮半島から伝えられた異国の宗教である仏教を日本に定着させた人物です。摂政という政治の責任者であった聖徳太子は、自ら仏教を深く学び、仏教を国教として国家統治の基本思想に採用し、平和な国家の設立を目指しました。
 「憲法十七条」は、朝廷内の豪族の規範として聖徳太子が制定したもので、聖徳太子の仏教理解が窺えます。今回の法語はその第十条にある言葉で、この文を訳すと「皆ともに凡夫(ぼんぶ)なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれが決めることができるだろう。」となります。
 聖徳太子の時代は、力を持った豪族同士の争いが絶えなかったといいます。いつの時代も、争いは「自分が正しい」という思いのぶつかり合いによって起こるものです。相手を傷つけてでも自分の思いや考えを押し通そうとしますし、また自分自身が自分の都合に合わなくなれば、自分で自分を傷つけてしまうこともあります。
 どんな力持ちの人でも自分で自分の体だけは持ちあげることができないように、人間は自分の都合や価値観を通してしか物事を見ることができないのですから、自分で自分のことをまっすぐに見ることは不可能です。にも関わらず、自分だけは正しく物事を見て考えることができているように勘違いし、「自分は正しい」という思いに縛られ、どこまでも自分の都合を中心に生きる愚かな人間の姿を仏教では「凡夫(ぼんぶ)」と教えます。
 「これこそ真実だ」「これは嘘だ」という刺激の強い言葉が溢れ、正しさのぶつかり合いで世の中が分断されようとしている今の時代だからこそ、私たちは“1”度立ち“止”まるというのが“正”しい行いかもしれません。
 ところで、関西弁に「知らんけど」という言葉があります。無責任な感じに受けとられる言葉ですが、これは「私は凡夫であり、正しい道理をわきまえていないので自分の発言に責任が持てません」という意思表示であり、「自分が正しい」という押しつけを予防しようとする、誠実なコミュニケーション技法のひとつなのです。

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