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7月

書:スタシアチェッリ ゾフィア(留学生)

書:スタシアチェッリ ゾフィア(留学生)

 先日テスト返却があった際、「ちゃんと見直しをしておけば。もったいないことをした」と嘆いている生徒がいました。
 「勿体(もったい)ない」という言葉を辞書で引くと「そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい」と、書かれてあります。私たちの普段の生活でも、できるのに、できなかった時や、期待値に届かなった時に、「勿体ない」という言葉を使うことがあります。
ところが「勿体」という言葉の本当の意味は、「本来あるべき姿」ということで、その姿から消失した形が「勿体ない」ということになります。
 写真家の本橋誠一さんは、大阪は松原の屠場(牛や豚などの家畜を殺して解体し、食肉に加工する施設)で働く人々を約三十年に渡って記録されました。その中で、牛と向かい合う作業員の姿から、生きるためには殺さないといけないという人間の矛盾に苦悩する姿と、「いのち」を奪う者に向けられた差別の中にあっても、誇りをもって仕事に取り組む姿が垣間見えたそうです。そして、「いつから私たちはいのちが見えなくなったのだろうか。」という問いかけもされています。
 かつて私たち人間は自らの手によって「いのち」を奪い、自らを生かしてきました。そして、目の前の「いのち」が息絶える度に、「いのち」のはかなさ、生死の理が、ありありと見えたのだと思います。
しかし、時代が進むにつれ貪欲さを増した人間は、大量生産、大量消費を好むようになりました。そして、便利で快適な暮らしを享受できるようになった一方、「いのち」を個人の所有物にしたり、「いのち」が互いに支え合っていることを忘れたりと、「いのち」が見えなくなっているのが今の私たちです。

「私は、どのようにして生きている」のか。
「勿体ない」ことをしている私たち人間は、改めて考えなければならないように思います。

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