6 月

書:宮下 結菜
この文章を書いている私(宗教科教員)は、平均的な成人男性に比べ身長が低いほうです。これは幼いころからそうで、小学校入学以来、クラスで「背の順」で並ぶときには必ず列の先頭に私がいました(反対に、名前の順番では必ず最後尾でしたが)。
これは、長らく私にとって大きな問題でした。背の高い人への羨望の気持ちは、小学生頃から芽生え始めました。なんとか背を伸ばそうと、苦手だった牛乳を毎日飲んだり、当時使っていた二段ベッドの上段のフレームに足を挟み逆さまにぶら下がってみたりしました。しかし、なかなか自分の望むような結果は得られませんでした。「身長さえ手に入るのなら、私は他には何も望みません。」と、お祈りするような気持ちで思春期の日々を過ごしていました。
小学生・中学生と続き、高校生になっても、同じ悩みに心が支配されていました。そのような高校時代でしたが、ある二人の人物から言われた一言が、私の心を軽くしてくれました。
一人はクラスの友人でした。その友人は大の競馬好きで、私に頭を下げて「お前のその低い身長は競馬のジョッキー(騎手)に向いている。頼むからジョッキーを目指してくれ。」と言いました。身長の低いことが有利になる職業があることを初めて知り、自分の身長の見方が変わったのを覚えています。
もう一人は私の母親でした。母親は私に「あんた、背の低いのは“省エネ”なんやで。食べ物も水も少なくて済むから環境にええことなんやで。」と言いました。母親は冗談のつもりで言ったのかもしれませんが、「背が低い」ことと「省エネ」がつながるなんて発想は自分の中には無かったので、世紀の大発見をしたみたいでうれしい気持ちになり、心がほどけました。
今回の法語「評価は創造である」という言葉を、私はこのような自分の経験に当てはめて受け取っています。自分の身長に対する「評価」が、目の前で「創造」されたのです。既存の評価軸を超え、新しい「評価」を「創造」する力を持っている、ここに人間の豊かさを感じます。