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書:那須野 彩子

 中島敦の『山月記』という話をご存じでしょうか。詩人として名を上げようとした主人公・李徴(りちょう)は、自身の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に飲み込まれて虎になってしまう、という話です。(2年生の国語の授業で読みます。)
「自尊心」は「自信」や「プライド」と呼ぶこともできます。博識で知恵が非常に優れ、若くして官吏登用試験に合格する李徴には、自身が才能のある詩人だという強いプライドがあったのです。しかし、後生にまで名が残るような詩家になりたいと言いながらも、自分から進んで先生に就くこともせず、また詩の仲間と交わって切磋琢磨することはありませんでした。それは「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」が、そうさせたのです。
李徴は、表面的には「自分は優れた詩人なんだ」という自尊心、つまり「優越感」に溢れた人物だったのでしょう。しかし、その内面には、「自分には詩の才能がないのでないか」「他人より劣っているのではないか」という強烈な「劣等感」に充ち満ちていたのでしょう。
この自分自身を狂わせていく内面のことを李徴は「猛獣」だと言いました。さらに李徴は、誰もがこのような「猛獣」を自身の内側に飼っている「猛獣使い」なのだと言います。
もし李徴が、自分の劣等感を「まっすぐに」認め、向き合うことができたら、そこから地道に努力し有名な詩人になれたかもしれません。しかし、「まっすぐに」認められなかったが故に、優越感によってどこまでも劣等感を隠し続け、ついには人間の心を失い虎になってしまったのです。
優越感も劣等感も、どちらも「勝ち負け」で価値をはかるモノサシから生まれるものであり、コインの裏表のようなものなのです。

9月

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