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12月

書:宮下 結菜

 近年、どの高校でも「探究」の時間というものがカリキュラムに組み込まれるようになりました。それぞれ個人やクラスでテーマを見つけて、探究的な学びに取り組んでいます。
伊那西高校は仏教を建学の精神とする学校ですが、その仏教について、「仏教は人間探究の教えである」という今回の言葉があります。
 仏教というと、難しい勉強をするもの、というイメージがあるかもしれませんが、この言葉にあるように、仏教は「人間」を探究するための教えなのです。社会問題について探究しようとする社会学があり、身のまわりの物質を探究し解明しようとする化学があるように、「人間」という存在、もっと言えば「私」という存在を探究しようとしているのが仏教なのです。
 仏教の始まりはお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)ですが、お釈迦様は、「どうして人間は苦しむのか、その原因は何なのか」ということを自分の内へ内へと探究されました。
また、私たちが学んでいる浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、自分の存在を仏教に問い、そこからあきらかになった自分を「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と表現されました。
 さらに、清沢満之(きよざわまんし)という明治時代の僧侶は、日本の近代化の流れのなかで、仏教が本来の願いを見失い形骸化しつつあった現状に対し、「自己とは何ぞや、これ人世の根本的問題なり」と、仏教のテーマが「自己(自分)」の探究であることを示してくださいました。
 探究の出発点は「問い」です。「なんのために生まれて 何をして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ」とアンパンマンの歌に表現されるような人間の内奥からの「問い」が、仏教という探究の出発点なのです。
 どのような人生を歩もうと、どのような環境に身を置こうと、そこに必ずいるのは「私」という存在です。その「私」を探究しないのは、最も大事な問題を置き去りにしているようなものではないでしょうか。

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