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こころの掲示板

12月

書:丸山 舞依

 仏教では、出家の際に剃髪(ていはつ)といって髪を剃り落とすことを習わしとしています。現在でも、浄土真宗では、出家の式である得度式(帰敬式)において、髪に剃刀を三回当てる、という儀式を行っています。三回という数字には意味があり、「三つの髻(もとどり)」を落とすためであると言われています。髻とは髪を束ねた結び目のことで、これは人間の「煩悩」を象徴するものです。「三つの髻」とは、「名聞」「利養」「勝他」という三つを指します。
 「名聞(みょうもん)」とは、世間から認められたい、人から褒められたいという欲望で、他者からの評価に執着する心です。
 「利養(りよう)」とは、金儲けに代表されるように、損することを許せず、また得しなければ気が済まないという損得に執着する心です。
 「勝他(しょうた)」とは、他者より優位な立場にありたい、つまり勝ち負けに執着する心です。
このような煩悩は、自分や人を傷つけ、人間の苦しみのもとになるものですので、仏教では何とかこれを離れようとします。伊那西高校の願いも同じです。
 ある人は、宗教とは車の「ブレーキ」のようなものであると言いました。ブレーキのない車は、何かにぶつかって壊れるまで動き続けるしかありません。それは多くの苦しみや悲しみを生むものです。
ブレーキをかけないと、「三つの髻」はぐんぐん伸びていきます。しかし現代では「社会から評価されるような人になりなさい」「自分の得や欲望を追求しなさい」「競争に勝ちなさい」と、むしろ煩悩を煽り助長するようなものや考えに溢れています。しかも「自分たちの都合のいいようにしてどこが悪いの?」という向きさえあります。
 ブレーキのない「教育」は、このような煩悩を助長するものとなってしまいます。科学の力によって、私たちの生活は便利で快適なものになっています。しかしながら、同じ科学の力は、戦争や自然破壊の道具を生み出し、人間の悲しみを人間の手によって作り出してしまっているのもまた事実です。それはつまり、今回の法語の「賢き悪魔」と言えるのではないでしょうか。

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