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こころの掲示板

11月

書:中城 琴乃

 先日、家電量販店で目にした「ロボット掃除機」。人の手が届かない部分に潜り込んで、埃を綺麗に吸い取る。その完璧な掃除に思わず感動しました。「これで掃除はロボットにお任せ、ラクができる」と、多少高価ではあったものの、購入しようと思った時、店員さんから「掃除機を稼働するには、まず床にあるものを片付ける必要がありますよ」と一言。よく考えれば当たり前のことですが、ロボットを稼働するためには、人間のお膳立てが欠かせません。床に散らかっているものをどかし、椅子をあげるなど、ロボット掃除機が通る道を開けなければなりません。いろいろ考えた結果、そんなにセカセカ動き回るのなら、自分で掃除した方が早いと思い直し、購入を断念しました。
 昨今、「ロボット」や「AI」分野の研究が進み、それらのものがいずれ、人間ができていることも可能になると言われています。またこうした風潮から「コンピューターがだんだん人間に似てくる」ともいわれます。
思い返してみると、「ロボット」や「AI」とまではいかないものの、大部分がコンピューター、機械によるもので私たちの生活が成り立っています。そして、それらのものが、私たちに便利で快適な生活を提供してくれることを考えると、本当に近い将来、人間のやっていることが全て機械化していくのでは、とも思います。
そんな私たちの生活を解剖学者の養老孟子先生は「脳までもコンピューターになっている」と、危惧されています。
 身近な例をあげるとスマートフォン。電話機能だけなく、多種多様な機能を備える文明の利器は私たちの生活にも変化をもたらしました。しかし、一度みたらやめられない、片時も離せないと、いつの間にか使う側から使われる側になっていることが多分にあります。挙句の果てには分からないことがあればすぐに調べ、曖昧であることが許せない。お店探しもまずはレビューや点数を調べる。感情よりも数字で物事を考えるなど、いつの間にか私たちはスマホ型思考になっているかもしれません。
 今後も、この情報社会において先生が危惧されることは止められないかもしれません。しかし、せめて「心までもがシステマチックにならないように」したいですね。

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