5月

書:清水 悠圭
今回の掲示板のことばは、二〇一五年度の伊那西高校の報恩講に講師として来られた田口弘願(たぐち ぐがん)さんの法題になります。
田口さんは幼少のころから片目が見えず、そのことで、学校ではいじめやいやがらせを受け、高校時代には自信があった学業も振るわなくなりました。「目さえ見えればこんなひどい目にあわない」「目さえ見えれば、自分がこんな人生を送らなくていいんだ」と、弱視という自分をみじめに思い、何度も自死を決意したそうです。そんな時、田口さんは縁あって、ある先生に出遇いました。そして、先生に泣きながら自分が今までどれだけ辛い人生を送ってきたかということをぶつけました。
すると先生は、「そうですか、それは大変でしたね。でも、ここに生きていることを喜べないあなたはとても寂しい人ですよ。」と言いました。田口さんは最初、この「寂しい人」ということを自分の中で受け止めきれなかったそうです。しかし、よくよく自分のことを振り返ってみると、何をやっても上手くいかない、自慢できるものもない、あるのはいつも劣等感だけ。先生が言う、ここに生きていることを喜べない「寂しい人」はまさに自分のことであると、腑に落ちたそうです。そして、その先生から最後に「あなたが苦しいのは目が見えないからではなく、目の見えないあなたを生かしているかけがえのないいのちに出遇っていないからではないですか」と問いかけられ、大きな衝撃を受けたといいます。これを契機に田口さんは先生を通して念仏の教えを聞き続けられ、京都にあるお坊さんの専門学校の門を叩かれました。
それから数十年後、縁あって伊那西高校の報恩講に来てくださった田口さん。お話の中で、「今でも目が見えたらいいなと思うことはあるし、目が見える人をうらやむ気持ちが消えたわけではない。しかし、今、この身の事実を受け止められないならば、たとえ目が見えるようになっても、自分に満足できず、人をうらやんだり、周囲の状況に振り回されたり、今以上に悩むにちがいない」と言われました。
私たち一人ひとりが受けているこの身は異なります。しかし、いのちを生きるという本質は同じです。田口さんはこんなことをまさに身をもって問いかけてくれました。
